藤子不二雄Aさんがご逝去されたと話題になっています。
藤子不二雄Aさんはたくさんの漫画を描かれ、「忍者ハットリくん」や「怪物くん」など一度は聞き覚えのある作品ばかりですね。
そんなたくさんの漫画を世に出されていた藤子不二雄Aさんですが、若い頃はどんな生活を送られていたのでしょうか?
若い頃は漫画家ではなく、就職されていたようです。
そしてさらに驚きなのが、藤子不二雄Aさんは住職の息子として産まれ、生活されていたようです。
また、相方の藤本弘さんとの関係やトキワ荘でのことも気になるのではないでしょうか?
今回は「藤子不二雄Aは若い頃は記者で住職の息子!相方藤本弘やトキワ荘での関係も!」と題して紹介していきます。
この記事でわかること
- 藤子不二雄Aは若い頃は記者として活躍していた!
- 藤子不二雄Aは住職の息子だった!
- 藤子不二雄Aと相方である藤本弘の関係が気になる!
- 藤子不二雄Aのトキワ荘でのエピソードは?
では早速本題にいきましょう!ご覧ください!
藤子不二雄Aは若い頃は記者?
藤子不二雄Aさんさんは記者として活躍されていました。
中学生のころから漫画家になることを目指してはいましたが、伯父さんが重役だったこともあり「富山新聞社」に就職されるのです。
富山新聞社では記者として学芸部でインタビュー記事を担当したり、社会部や政治部で似顔絵を描いたりされていたようです。
藤子不二雄Aさん本人も、この仕事が楽しくやりがいを持たれていたようです。
しかし相方の、藤本弘さんがお菓子会社に就職するもののすぐに退社し、漫画家として活動を始められたのです。
藤本弘さんが、漫画を描き雑誌社へ送り続け、藤子不二雄Aさんが週末に漫画の手伝いに行くといった生活をおくられていました。
藤子不二雄Aさんが記者として2年がたったころ、「東京へ行こう」という藤本弘さんの言葉のもと上京されました。
上京することを母親は「好きにしたらいい」と応援してもらえ、そして夢に懸けたい思いから上京することを決意されました。
富山新聞では藤子不二雄Aさんの活躍を大きく取り上げていることも多いようです。
藤子不二雄(A) 氏のインタビュー。富山新聞では1面 https://t.co/rwSnN72Tq4
— くはちゃん (@kuha419_5) September 17, 2018
藤子不二雄Aさんと富山新聞社は退社した後も関りがあったのでしょう。
注文していた富山新聞のバックナンバーが届いた!お目当てはもちろん「記者Ⓐ 藤子不二雄Ⓐ氏の記者時代」。非常に読み応えがある内容。
元日から3号連続で一面トップというのがスゴい。富山新聞の力の入れ具合が伝わってくる。 pic.twitter.com/URcO9SNfl6— ynym@引っ越し片付け中 (@qqqqpodupxyz) January 12, 2022
今でもファンの間では連載されていた当時の新聞が人気のようです。
“富山には藤子不二雄A先生が働いてた新聞社があるんだよ。 観に行こうぜ。 富山新聞って言うんだけど。 まんが道では立山新聞っていう名前だけど、本当は富山新聞なんだよ”
— ヨシコレ (@Yoshikore) May 12, 2017
藤子不二雄Aさんの漫画の中にも富山新聞社は登場するよることもありました。
藤子不二雄Aは住職の息子!
藤子不二雄Aさんは、光禅寺で曹洞宗49代目住職の息子として誕生されました。
幼少期は、修行中の僧侶たちに可愛がられ育たれました。
1944年、藤子不二雄Aさんが小学校5年生の時、急に父親が亡くなりお寺から出なくてはならなくなりました。
父親が亡くなった原因は読経の後、鐘に頭を強打したことが原因と言われています。
親戚の伯父さんを頼り高岡市に引越しされます。
そして高岡市の小学校に編入されたのでした。
近くにある「光禅寺」は漫画家・藤子不二雄Aの生家。創建から700年近く経つ古刹で、加賀藩前田家とのゆかりも深い。藤子不二雄Aの父親が当寺の住職を務めていた。
現在の建物は1938年の氷見大火の後に再建されたもの。整った境内には、藤子不二雄Aが生み出したキャラクターの石像が並べられている。 pic.twitter.com/EmM55TXH35
— 武田菱 (@takedabishi8) January 10, 2021
この藤子不二雄Aさんが育った光禅寺は富山県にあるお寺です。
氷見市の光禅寺は足利尊氏を開基とする古刹で、かつて藤子不二雄Ⓐ先生の父が住職を務めていました。
Ⓐ先生が小学生の時に亡くなったため、高岡市に引っ越すことになり、そこでF先生と出会ったそうです。
門を入った正面にキャラクターのオブジェが置かれています。#藤子不二雄A #光禅寺 #氷見市 pic.twitter.com/hpAWiesBJA— 川路喜美子@バーチャル南青山女子のいたるところチャンネル (@kawaji_kimiko) January 14, 2020
門をくぐった正面には、藤子不二雄Aさんのオブジェが置かれてあり、今も飾られているようです。
藤子不二雄Aと藤本弘の関係は?
高岡市の小学校にで運命の出会いがあったのでした。
今後相方となる、藤本弘さん。
転向した後、藤子不二雄Aさんは休み時間になると、一人で絵を描いていました。
その藤子不二雄Aさんの絵を見て藤本弘さんが「絵を上手い」と声をかけたのが二人の出会いです。
しかし、藤子不二雄Aさんよりも藤本弘さんの方がすごく絵が常上手で、これがきっかけでとても仲良しになられます。
中学校は別ですが友情は変わらず、一緒に過ごすことも多かったようです。
一緒に読んだ、手塚治虫さんの漫画に衝撃を受け漫画家を目指されました。
おなじ「トキワ荘」で夢をめざしましたが、関係が壊れることもなく、ずっと友情は続いたようです。
藤子・F・不二雄氏と藤子不二雄A氏、トキワ荘では同居だったのは知ってたが、トキワ荘から出た後の最初の自宅は同じ敷地の分割した隣家、その次の引越し先も3軒挟んだ近所だったのか。仲良すぎか。
— ysktalking (@ysktalking) June 22, 2019
何年も一緒に暮らし、そして引越したとしても近くに住み、相方といえどパートナー以上の存在だったんですね!
藤子不二雄Aのトキワ荘でのエピソードは?
藤子不二雄Aさんと藤本弘さんは、1954年上京すると親戚の家2畳の和室を間借し生活されます。
「トキワ荘」には当時手塚治虫さんが住んでいましたが、引越しされ部屋が空くので入居することになりました。
このトキワ荘は既に寺田ヒロオさんが住んでおり、後に赤塚不二夫さん・石ノ森章太郎(当時・石森章太郎)さん・鈴木伸一さん・森安なおやさんが入居されるのです。
漫画家として共に夢をおいかけられた仲間です。
仲間の活躍も嫉妬心でなく、喜びが勝り、兄弟のような関係だったようです。
何十年たってもその関係は変わらす、「トキワ荘」のメンバーとはずっと仲間、家族のような関係が続いたようです。
まとめ
今回は「藤子不二雄Aは若い頃は記者で住職の息子!相方藤本弘やトキワ荘での関係も!」としてお伝えしました。
藤子不二雄Aさん若い頃は住職の息子として産まれ、そして新聞社の記者として活躍されていたようです。
幼少期から漫画家も目指し、相方の藤本弘さんとは素晴らしい関係で、仕事だけでなく私生活でも支え合えるパートナーだったことがよく分かります。
以前住んでいたトキワ荘では、住む人がライバル関係ではなく仲間、兄弟のように共に切磋琢磨しながら夢を目指していたようで、その関係性がほっこりしました。
最後になりましたが、藤子不二雄Aさんのご冥福をお祈り申し上げます。
お読みいただきありがとうございました。